大腸外科医として、今まで3,000人を超える診療に、直接あるいは間接的に関与した。前任の国立大阪病院の経験であるが、『大腸癌―グレードに見合った治療法と早期発見の手段』(1994年、金原出版)は、私の唯一の単独執筆である。書き始めて3ヵ月で上梓した単行本ではあるが、売れ行きは出版社の予想以上で、印税でマイカーを手にできた。

 慶應義塾大学卒業後、大阪大学の陣内傳之助・安富正幸の両先生のもとで、大腸癌に対する治療の変遷を眞近で感じ、自ら体験し、私なりの哲学もできた。
 「大腸癌ではグレードに合った治療法が大切です。拡大手術は外科医にとって快い言葉で、その技術を習得して根治性を高めるべきです。縮小治療は機能が温存されますが、これを選択する医師には勇気が必要です。大腸癌のほとんどは、ステージが同じであれば、誰が手術しても同じ予後がえられ、専門医が命の恩人であることは少ないのです。患者さんにハイグレードな結果をあげるためには、大腸癌を早期に拾い上げる手段を講じる必要があります」(1994年、金原出版)
 化学療法の少ない時代にあって、非治癒手術例の5年生存率は5%以下であり、外科手術例の23%が非治癒切除であった。その50%が受診の遅延であり、25%には医療側の不備が窺われた。外科医のかたわら、大腸癌拾い上げをライフワークと決め、啓発運動・診療体制・集団検診に力を入れた。
 ポスター、新聞、テレビ、公開講座など、大腸癌を取り上げるメディアが少なかった1980年代には、「ガン急増 早期発見を」という記事の掲載日(1981年11月19日、読売新聞)から5日間で25例もの大腸癌が発見された。大腸内視鏡が普及する以前には、初診時に直腸指診を行うことが重要であったが、内科診断学の執筆教授でも、指診の経験が全くないことを知った。
 集団検診では、一次スクリーニングとして3日間の化学的便潜血反応、二次スクリーニングとして3日間の食事制限の後に再度の3日間の化学法を行い、精検は注腸で行った。現在の免疫学的な便潜血検査法に比べて、感度・特異度は低く、脱落例も多かった。1992年に大腸癌が第5の老健法の対象疾患となったことは、私自身も所属した検診研究班の大きな業績である。

 出版から15年経過した著書を介して、日本における大腸癌診療の変遷を述べた。とりわけ化学療法の領域では、その進歩が著しい。いまさらながら日進月歩の医学に驚嘆する。



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